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2005年 12月 28日
正しいとか間違ってるとかははよく目にする言葉ではある。
だけど問題は、その基準がどこにあるか。 間違いを正しいの反対と位置づけるならば、 「正しい」とは何かを考える必要が出てくる。 一般的に「正しい」ものとは多数を占めるものである。 多くの人が賛同するものは、なるほど「正しい」だろう。 また一方で、昔から語り継がれているようなことは、 「常識」と言う言葉により「正しい」評価を得る。 この二つは同様の証明方法により正しいことが説明されている。 その証明方法は、時間を費やすことである。 後者の場合、当然昔から言われているのだから、 長い時間が費やされていると言うことになる。 前者の場合、一人一人の時間は短くても、 その事を体験した時間の積み重ねにより、 長い時間が費やされていると言っても問題ないだろう。 では殆ど前例の無いものに対する「正しい」の判断は何がするだろうか。 誰も出来はしない、あえて言うならば未来の人だろう。 「長い時間」により証明する必要がrが、その単位を弄ることにより、 その評価する「未来の人」は100世紀後の人かもしれないし、 はたまた1秒後の自分であると言うことも出来る。 正しさを評価する場合において絶対的な評価は不可能かもしれない。 だが結局のところ、多数の人がどう判断しようと、 その外部の評価をどう受け取るかは自分次第である。 自分がこれが正しい、と思ったならばそれは正しい。 たとえどんな突拍子も無い事であろうと。 自分の中の正しさと他人の中の正しさの差… これを意識せず人に自分の正しさを示すならば。 それは単なる独りよがりである。
by irof
| 2005-12-28 12:46
| てけと
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